75年前 沖縄県民が4人に1人が命を落としました。住民を巻き込んだ壮絶な地上戦。どれだけの幼い命が・・・75年前の出来事!「幼い3歳の弟が目の前で砲弾の破片がわき腹に刺さり血がにじんでいた。涙流す力もなく・・・叔母は、ケガをした自分を膝枕にほほえみかけてくれていた時、砲弾が叔母の頭を吹き飛ばした。首から血のあぶくが立った。自分には叔母の頭蓋骨の破片が右ひざに刺さった。その傷がいまだ痛む・・」(84歳の男性)譫語5年を迎える今も、重く口を閉ざし続ける人がいる。この方は、痛みは、戦の記憶と共にある。と戦争で何もかもが壊され無の状態から生活を築き上げないといけなかった。目の前のことで懸命だった。このような文章を目にし、涙が止まらななかった。私は、終戦の翌年、昭和21年 樺太で生まれ23年6月引揚船で日本に、2才半でした。昭和25年6月1日 3歳半 鷹巣の大火でした。 夜の空一面が火の海 震えながら墓地の避難場所で火の粉を振り払っていたことを鮮明に思い出す。戦争は反対 やってはいけない。 コロナは 世界規模でまた動き出すかも・・・・今は 自己管理に徹底するしかないですね。・・・地震や洪水、異常気象 地球が悲鳴を上げている。そんな異変を感じる今日この頃です。注意し合いましょう。
今日は6月合同避難訓練が実施されました。123名中 登園時は114名 職員は34名でした。裏のお家から火災発生、においや煙に気付いた職員が報告、すでに未満児は避難への行動をとりました。事務室職員はそれぞれ風向き、状況判断から同時に放送で避難場所を児童公園と指定し行動をとる。玄関に置いてある誘導旗を手にした職員は、避難誘導に率先しいち早く方向を指示していた。向かいの小路から大きい通りへ抜け、児童館へ・・トータルで9分でした。ケースバイケース、状況判断 職員のそれぞれ子どもにとって今は何をすべきか、の判断含め連携もよくスムーズにできたと思う。
園舎から全園児が出るまで約3分ちょっとでした。北よりの風、風力4 気温29度でした。帰りは30度 各自水筒を持参していたため、児童公園では水分補給を十分にとることができました。保護者へは避難訓練として消火活動中、帰園できない、お迎え願う趣旨をメールでお知らせする 緊急避難訓練の様子を報告できました。終了後 児童公園で消防署員からの講評と消火器訓練、記念写真をとることができました。さわやかな風薫る児童公園での様子でした。木陰がたくさんあり、気分爽快の訓練日でした。